公開日:2018年6月16日

イザナミが最後に生んだ神様はカグツチという火の神様でした。その神様によって体が焼けてイザナミは病床に伏します。

 

まず、イザナミは嘔吐しますが,その嘔吐物(たぐり)から、カナヤマビコ(男神)とカナヤマビメ(女神)が生まれます。この神々は、金山、すなわち鉱山を司る神です。嘔吐物から生まれたのは,嘔吐物の概観から連想したものです。

 

次に、病床に伏したイザナミの大便からも、二柱の尊い神が生まれます。それはハニヤスビコ(男神)とハニヤスヒメ(女神)です。「ハニ」とは粘土のことで、「ハニヤス」とは「土をねって柔らかくすること」を意味するとされています。

 

イザナミの死がいよいよ近づきます。究極のケガレと言ってよい、この「死」に直面した究極の時ですら、さすがに、日本を生んだ神様だけあって、その尿(「ゆまり」と表現し、「ゆ」は湯、「まり」は排泄することを意味する動詞から来ている)からも、水の神であるミズハノメ(女神)を生みます。

 

「ミズハ」とは「水走」と解釈し灌漑のための水のことを指しているとされたり、「水つ早」と解釈して、水の出始め(泉、井戸)などを表すとも言われています。

 

次に、穀物の生育を司る神であるワクムスヒ(男神)を生みます。「ワク」は若々しい、そして「ムスヒ」は生成の意味です。そして、この神の子が、伊勢神宮外宮の主神となる食物神である豊受大神です。

 

もし尿がケガレだとしたら、プラスイメージのムスヒの神は生まれないでしょう。体から出てくるものは、物理的に汚れたもの、老廃物であっても、スピリチュアルにはケガレではないと考えてよいでしょう。ちなみに、古事記には、これらの神々がまがまがしい(=ケガレにまみれた)との記述はありません。

 

同様に、尿よりもずっと汚いとされる「嘔吐物」や「大便」からも神々が生まれている現状から、嘔吐物や大便もケガレそのものとは言えないでしょう。

 

イザナギは、自分の妻であるイザナミを結果的に死に至らしめた,実の子カグツチを殺してしまいます。そのときに飛び散った、正に、ケガレの象徴といえる血ですら、神産みに関係しています。つまり、以下のごとく、正にその「血」から多くの神々が生まれます。

 

十拳剣の先端から落ちた血が岩に当たって生まれた神

→イハサクノカミ、ネサクノカミ、イハツツノヲノカミ

十拳剣の根元から落ちた血が岩に当たって生まれた神

→ミカハヤヒノカミ、ヒハヤヒノカミ、タケミカヅチノヲノカミ

十拳剣の柄から落ちた血より生まれた神

→クラオカミノカミ、クラミツハノカミ

 

カグツチの血から生まれた神々の中で、特筆すべきは、タケミカヅチノヲノカミとクラオカミノカミです。前者の神は、雷神にして剣の神で、天孫ニニギの降臨の前にすべき、オオクニヌシから国を譲ってもらう交渉に成功した神(鹿島神宮の主神で、春日大社にも勧請された)です。また、タケミナカタ(=諏訪神社の上社の祭神)との力比べをして勝つのですが、これが相撲の神話的起源です。

 

一方、クラオカミノカミは、クラ(闇)は「谷間」を指し、「オカミ」は龍を表す古語であることから、谷間に住む龍神と解釈でき、水や雨の神とされ、京都の貴船神社や奈良の丹生川上神社(にうかわかみじんじゃ、二十二社の下八社の1)の祭神となっています。

 

さて、イザナミの嘔吐物や大便や尿は死にゆく体から出たものだから、この事象は「死」を象徴するかもしれません。また、カグツチの血はもちろん「死」を意味しています。これらの状況から神が生まれているので、この神産み自体「再生」を暗示すると言えるでしょう。

 

「死→再生」を暗示する、日本神話上の一大イベントは「天照の岩戸隠れ」で、隠れることで「死」を暗示し、再度現れることで「再生」を意味します。

 

食物神の死とその体から食物が発生することも、「死」と「再生」(農業という業に生まれ変わること)を意味しています。古事記では、スサノオがオオゲツヒメ(食物神)を殺害し、日本書紀ではツクヨミがウケモチ(食物神)を殺害します。

 

再生のために死が必要であることを考えると、次のようにも言えそうです。死は「ケガレ」、再生は「ハレ」とすると、ハレのためにケガレは必要となります。中国思想の陰陽のごとく、共に必要な概念ということになり、ケガレは決して、追放すべきものではないことが分かるのです。

 

死や血や汚いものは「外的なケガレ」(=ヨゴレというのが普通)と言えるものの、忌み嫌うべき、そして追放すべきケガレではないのです。少なくとも日本神話では、神の死や大便や尿も忌み嫌われていません。

 

一方、「内的なケガレ」(西洋では罪[sin]に相当する)こそ、忌み嫌うものであろうと考えることができます。神社におけるお賽銭の意味が、罪穢れをお金にすりつけて,この内的ケガレを追い払うことにあります。

 

この追い払うべきケガレについての古事記上の記述は、黄泉国から帰ったイザナギのミソギの場面が代表的です。この場面では明らかにミソギによってケガレを払っています。

 

私の考えでは、上に述べた外的なケガレと内的なケガレの間を取り持つのが、民俗学的な「気枯れ」(=気が枯れること)だと思います。「気枯れ」とは物質的には、エネルギー枯渇の状態で、体がしんどい状況から、嘔吐物、大便や尿が放出され、究極には死に至ることを暗示します。

 

一方、「気枯れ」は精神的には、やる気が枯れる状況とも取れ、そうなると、内的ケガレを増幅してしまいます。

 

いずれにせよ、必要なケガレ(ヨゴレに相当するもの)と追放すべきケガレがあること、そして、前者が外的ケガレ、後者が内的ケガレに相当します。その2つのケガレを「気枯れ」が橋渡ししていることが分かります。

 

現実的に考えて、大便と尿は生きるのに必要なもの、血や嘔吐は生命維持の結果、出てくる可能性があるものとして、やはり必要なものと言え、追放すべきものではありません。

 

スサノオが高天原で色々と悪さをする中で、宮殿に大便をまき散らすという場面がありますが、そんなひどいことをしているスサノオに対し、アマテラスは「何か考えがあってのことでしょう」とかばうのも、大便をケガレと見なしていない証拠でしょう。

 

以上のことから、私は、外的ケガレというのは、もはや、ケガレというべきものではなく、単なる「よごれ」と規定でき、ケガレの概念とは異なるものと考えてよいと思っています。漢字で書くと「ケガレ」は「穢れ」、「よごれ」は「汚れ」となるでしょう。

 

結論として、神道におけるケガレは,実は内的ケガレ(実質的には悪い心を持つこと)のみであろうと考えることができるのです。

 

この記事の著者

通訳ガイド研究会
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