公開日:2018年7月9日

数学では、A+B+C=C+B+Aです。

A, B, Cに言葉を当てはめると,これが成立しません。例えば、JohnをA、loveをB、youをCとすると、John loves you.とYou love John.の意味が異なるからです。しかも主語によって動詞の形に変化が生じます。Cがherであれば、そもそもCBAは成り立ちません。
  ○John loves her.
×Her love John.

単語を単に並べても、数学のようにはいかないことを述べましたが、「いやいやABCと表記すれば、かけ算だから、上記の考えは詭弁だ」と言う人がいるかもしれません。でも、かけ算と考えても同じことです。ABC=CBAには違いありません。

ここで、プラスの意味をもつandについて,考えてみます。更に,数学と言葉の違いはあるのかどうかを検証します。数学ではA+B=B+Aです。
(a) John and Mary
(b) Mary and John

上記の(a)と(b)が同意であれば、andが結ぶ概念については、数学的と言えます。ところが、言葉でandを用いた場合、最初に来る要素が微妙に重視されるのが普通です。その傾向がはっきりとした現象は、ladies and gentlemenという表現に見られます。gentlemen and ladiesとは言えません。これは、文法的には可能でも、意味がそれを許さないという例です。 

bread and butterに至っては、文法的にも不可能であると判断できます。breadが主体でこれに付属する物としてbutterがあり、<主体and付属>の構造となっているので、butter and breadが非文法的として排除されるのです。

百歩譲って、A and BとB and Aが同意であると考えても、これを主語とした文を作った場合に問題が生じます。次の文はどういう意味でしょうか?
(c) John and Mary played chess.

JohnをA, MaryをB, played chessという行動をCとすると、数学的には(A+B)C=AC+BCなので、次の2文が同意であれば、言葉はやはり数学的だと考えることができます。
(d) John and Mary played chess. [=(c)]
(e) John played chess and Mary played chess.

確かに(d)は(e)の意味と分析できますが、通常は(f)のような形を取り、更に、より自然な表現としては、(g)のようになるでしょう。
(f) John played chess and Mary played chess, too.
(g) John played chees and Mary did so, too.

だから、厳しい観点で言うと、完全な数学というわけにはいかないのです。いやいや、更に、百歩譲って、(A+B)C=AC+BCが成立したとしても、(c)の意味は,実は曖昧であるという点に気付くべきでしょう。(c)の意味は、次のような意味を持ち得ます。
(h) ジョンは誰かとチェスをし、メアリーも誰かとチェスをした。[(e)の意味]
(i) ジョンとメアリーがチェスで対戦した。
(j) ジョンとメアリーはチームを組んで誰かとチェスをした。

数学は上記の曖昧性まで説明できません。このあたりが言葉の不思議でもあるのですが、言葉というのは、曖昧性が出てくるものです。

しかし、全ての表現が2義以上にとれるという曖昧性を持っているわけではありません。むしろ、そんな曖昧性の出現は少ないものです。一方、言葉には根本的に漠然としているという漠然性が全ての文に見られます。次の文で説明しましょう。
(k) He went there.

(k)は曖昧(=2義以上に意味がとれるという意味)ではなく漠然としています。(k)が表す意味は、「ある男性一人が過去に於いて、話者から離れて、ある地点へ移動した」ことだけを表し、heとは誰で、thereとはどこで、それがいつで、その目的は何で、誰かと一緒だったのか、更に言えば、どんな移動手段を使ったのかなどは、一切分かりません。つまり、厳密な観点でいえば、漠然としているわけです。

言葉には、上で述べたように「根本的漠然性」が存在するのです。コミュニケーションの意義は、必要に応じて漠然性を少なくすること、すなわち、必要な情報を取り出す作業にあると言えるでしょう。

言葉が全てを表せない理由がそこにあります。He went thereに関わる全ての情報は膨大なもので、これを1文として表すのは不可能です。複数の文で表すことが理論的には可能であっても、現実には時間的制限が存在するので、文章で表すことも不可能なのです。

禅が不立文字という原理を打ち立て、「言葉」のマイナス側面を主張するのは、言葉に根本的漠然性、更には、偶然的曖昧性があるので、全ての事象を数学的に捉え、100%客観的に表現することが不可能であることを覚った上でのことだと、私は考えています。

言葉には,数学にない、心理的側面も関わってきます。言葉により、傷つき、言葉により、感動し、言葉により人生が変わるということもあります。

禅は言葉の不完全性を主張しているのですが、言葉を大切にしていないわけではありません。むしろその逆で、禅の考え方を、不立文字(文字にして伝えることはできない)・教化別伝(教えは以心伝心で伝わる)・直指人心(言葉によらず直接自分の心を見つめる)・見性成仏(自身の奥底にある仏性を発見して覚る⇒その仏性を自分全体に広げて真実の自分になる!)等の言葉で表現したり、禅の公案(言葉を用いて問答を行うための問題)を重視したりするからです。

この記事の著者

通訳ガイド研究会
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