公開日:2018年8月15日

動物園でライオンを見たとしましょう。すると、「ライオンがいる」と思うでしょう。難しく言えば、ライオンという存在を認識します。そのライオンを見て怖いと感じたとしましょう。この場合「こわいという存在がある」とは思わないでしょう。そもそも抽象的な感情は目に見える実体ではないからです。『ライオン』は「物理的なもの」で、『こわい』は「心理的なこと」です。

 

さて、「物理的なもの」のことを仏教では「色」(しき)と言います。ライオンのような、形のある物理的なものには、色があるから、「色」で物理的なものを代表しているのです。

 

さて、この物理的なものについて、仏教では、「色即是空」という根本原理があります。これは、超有名な経典である般若心経に出てくる極めて重要な概念です。「色即是空」とはどういうことを意味しているのでしょう。これに答える前に、「色」を掘り下げます。

 

「色」は2つの視点から分析することができます。1つは人間の視点、もう1つは宇宙の視点、もう少し詳しく言うと、人間が持つ感覚を通して物理的なものをとらえる観点と、宇宙を構成する要素で物理的なものをとらえるという観点です。

(a) 六境=色・声・香・味・触・法
(b) 六大=地・水・火・風・空・識

 

(a)は六種の感覚器官に刺激を与える対象で、これは、六根と呼ばれる「眼・耳・鼻・舌・身・意」に対応します。「六境」は客観からの視点、「六根」は主観からの視点です。これらのうち、最後の「法」と「意」を除いたすべてが「色」に相当します。物理的な世界にかかわっているからです。

 

(b)は、最後の「識」を除く、「地・水・火・風・空」が「色」(物理的なもの)と言えます。「識」は物理的ではないのは直感的にわかります。

 

つまり、仏教における「色」に当たる部分だけ、取り出すと次のようになります。

(a) 人間の視点 ⇒ 色・声・香・味・触
(b) 宇宙の視点 ⇒ 地・水・火・風・空

 

すると、不思議なことに気づきます。どちらも「色」の中身なのに、(a)の視点で「色」をまとめると、最初に「色」が入、(b)の視点で「色」をまとめると、最後に「空」が入るという奇妙なことが起こるのです。

 

物質的な世界としての「色」は、六境の「色」とは異なります。六境のは、物理的なものには違いないものの、あくまでも、六根のうちの「眼」を通してとらえる対象です。

 

また、物質的なものの中に「空」が入っていると、「色即是空」に矛盾が生じます。「色即是空」の空を置き換えて、「色即是一色」(「一色」は色の一部としての空を指す)とします。すると、「色」が「色の一部」と同じということになり、論理的に矛盾するのです。

 

実は、色即是空の「空」と、地水火風空の「空」は別物であることを確認しておきましょう。

 色即是空の空=sunyaシューニャ):実体がないこと

 地水火風空の空=akasa(アーカーシャ):虚空

 

sunyaは「色即是空」の解釈をするときに再度、考察するとして、akasaのほうを解説すると、「その本性無礙(むげ:何物にも妨げられないこと)、その働きが無障(むしょう:何物をも妨げないこと)であり、万物の存在を可能にしているもの」という宇宙の要素が「空」と規定できるものとされています。英語では、the state of void that allows everything to existと表現できるような概念です。この五大の空については、別のブログで、新たに論じたいと考えています。

 

ここで、色即是空の空について、五大の空とは異なるという点以外に、注意しておきたいことが、もう1つあります。色と空は物質と精神の対立ではないということです。例えば、「地水火風空」(=物質)が「色」に相当、六大の最後の「識」(=精神)が「空」に相当するということではないのです。「色即是識」とは言わないのです。

 

一般にAとBが対立概念であるとき、東洋的には、例えば、仏教的には「AB不二」と表現します。物質と精神が不二、つまり、一体不可分な状況を説明する原理は、「色心不二」というものがあります。この原理において、色は物質、心は精神を表しています。

 

つまり、厳密には、「色即是空」というのは、元来、対立する「色」と「空」を一体不可分とか、色があって空があり、空があって色があるという関係を述べているのではないと思われます。だから「色空不二」とは、特に日本仏教ではあまり言わないのです。

 

いわば、物質と精神は、純粋な対立関係で述べることができるので、次元は同じと考えることができますが、色と空はそもそも次元が異なるのです。次元が異なるものについて、「即」という言葉で対応するのです。

 

例えば、「煩悩測菩提」という有名な言葉があります。これは、「煩悩」(一般に悟りの妨げになるもの)と「菩提」(悟りそのもの)なので、次元が異なります。これを結びつけるのが「即」なのです。

 

「即」とは如来から見たら「=」(同じ)で、衆生から見たら「≠」(異なる)ということを同時に表す記号と規定するといいでしょう。「煩悩測菩提」とは、如来から見たら「煩悩は菩提と同じこと」であると同時に、衆生から見たら「煩悩は菩提と異なるもの」という、摩訶不思議な原理ということになります。わかりやすく、大雑把に言うと「煩悩測菩提」とは「煩悩があるからこそ悟れる」という意味に解釈してよいでしょう。

 

次元が同じものを「即」で結ぶとおかしなことになります。例えば、数という次元で一致する「一」と「二」、や人間という次元で一致する「男」と「女」、存在という次元で一致する「有」と「無」は「即」で結べません。如来であろうと衆生であろうと、どちらも、論理的な「=」と発想できないからです。(男女はイコールなんだというように、権利において「=」とするのは論理的な問題ではなく、倫理的な問題で、ここでの議論とは異なります)

 

さて、「色即是空」の意味も、「煩悩測菩提」の例とほぼ同様に解釈できると思われます。しかしながら、般若心経で説かれる「色即是空」は、「即」ではなく、「即是」となっています。私は、「色即是空」の理解に3段階あると考えています。

  第1段階 「色即空」という「煩悩測菩提」の思考法と同じレベルでの解釈

  第2段階 「色即是空」という形の持つ本来の意味のレベルでの解釈

  第3段階 「色即是空」「空即是色」を双方意識した般若心経レベルでの解釈

 

ここでは、色即是空の第段階での解釈を述べておきたいと思います。実は、般若心経では、さらに、奥深い解釈をしている(第3段階の解釈)と思われるのですが、この件については、ブログを改めます。

 

さて、いよいよ「色即是空」の解釈に迫りましょう。これは「物質的なものは、実は実体がない」ということです。もっと具体的に言うと、例えば、今回のブログの冒頭にあげた「ライオン」は、たまたまライオンの状態であって、部分に分けるともはやライオンではなくなるということです

 

ライオン(の雄)らしいたてがみや目や耳、内臓一切がうまく集まっていて、初めてライオンで、部分に分けてしまうと、もはやライオンではありません。だから、たまたま構成要素が集まっていて、ライオンの状態になっているから、ライオンであって、本当のところは、実体があるとは言えません。そのことを「色即是空」(今現在見えている物質的なものは、実は実体がないということ)と言っているのです。

 

空間的にある地点に存在しているライオンは、実体がないということです。さらに、時間的にも、すっとライオンではないでしょう。生きている動物は必ず死にます。ライオンが死んで分解されると、やはりライオンではなくなります。

 

つまり、「色」という物理的なものは、常に変化をするものだから、やはり実体がないといえるのです。

 

「色即是空」は、空間的な側面と時間的な側面の両方から言えるのです。つまり、色即是空は、それぞれ、別の言葉で置き換えることができるのです。

(a) 空間的側面の空性を強調する色即是空 ⇒ 諸法無我
(b) 時間的側面の空性を強調する色即是空 ⇒ 諸行無常 

 

だから、「色即是空」は「物質的なものは、精神的なものに帰着する」という唯心論(spiritualism)的な一元論(monism)ではないことがわかると思います。物質的なものは何にも帰着せず、「空」だと言っているのです。

 

また、「色即是空」は、色も空もどちらも実体と認める二元論(dualism)を示しているのでもありません。

 

「色即是空」という概念は、一元論でも二元論でもなく、あえて言うならば「不二論」(一でも二でもないという意味)、あるいは、「無元論」(帰着する「元」がない、すなわち実体がないという意味)の考え方であると言えるでしょう。

この記事の著者

通訳ガイド研究会
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