公開日:2019年9月22日

般若心経の「不A不B」を考える

般若心経には、この形式で現れる表現が3つあります。それは、「不生不滅」(ふしょうふめつ)、「不垢不浄」(ふくふじょう)、そして、「不増不減」(ふぞうふげん)の3つです。

「不生不滅」とは、時間には実体がない(時間という概念は絶対的なものではない)ということを述べているものと考えられます。つまり「時間即是空」と言い換えることができます。

 この「空」はもちろん「無」ではないので、「不生不滅」は「時間という概念そのものがない」ということを意味しません。時間がなかったら、ものの存在すら危ういものになってしまうからです。

むしろ逆で、宇宙には時間が一杯詰まっている、だからこそ、生成消滅には意味がないと考えるほう
が自然です。

 結論として、「不生不滅」は、現象的には、物事は生まれたり、滅したりしているけれども、大きな視点(如来の視点)から見ると、生まれも滅しもしていないということを示しています。
「不生不滅」は、「永遠」ということを示していると考えてよいでしょう。永遠の生を目指すのは、道教です。従って、この「不生不滅」は道教的原理と考えてもよいでしょう。

「不生不滅」の次に現れる「不垢不浄」とは元来は汚いとか綺麗とかいう「概念」は存在しないという意味ととれます。しかし、これはもともと汚い「物質」または「精神」が全く存在しないということではありません。

 先に、「不生不滅」が時間と関わっていることを述べましたが、「不垢不浄」は(人間が住む)世間と関わっていると言えるでしょう。

不生不滅は、時間が存在しないのではなく、永遠が存在することを意味するのと同様に考えると、不垢不浄は、世間が存在しないのではなく、何が存在すると言えるのでしょうか。

 時間の永遠に当たるのは、世間の価値でしょう。価値は無限に存在するので、世間は色々な価値判断が無尽蔵に詰まっている状況と言えます。プラスの価値もマイナスの価値も混在しているのが、世間だからです。

だから、世間とは、一見矛盾だらけの世界と捉えることもできます。世間は「無」ではなく、実に様々な矛盾を一気に取り込める「空」ということになります。「世間則是空」を示しているのです。
このように、現実的には、ケガレを扱いますが、元来、浄も不浄もないとする神道の原理を「不垢不浄」が示していると言えるでしょう。

 最後に現れる「不増不減」は、数量に関する事象ですが、この数量を包含できるのは空間ということになります。「増減」は元来存在しないということは空間がないということでしょうか。空間が「無」であれば、増減という発想すらできなくなります。

 この「不増不減」は、「不生不滅」が「時間が無ではなく空である」とする原理であると述べたのと全く同様、空間は無ではなく空であることを示すものと考えられます。つまり、「空間則是空」を表しているのです。

 「不生不滅」は「永遠」を意味するものと述べましたが、「不増不減」は何を意味することになるのでしょうか?

これは「無辺」ではないかと思われます。空間が無限に広いということです。そのような空間では「増減」は意味をなさない、すなわち「不増不減」なのです。

 空間は無辺であっても、空間を実体視しないのが仏教的発想です。だから、「不増不減」は、特に、哲学性と実践面が共に進んだ大乗仏教的な原理と言えるでしょう。

 まとめると、「不生不滅」は「時間を空とする」道教的原理、「不垢不浄」は「世間を空とする」神道的原理、そして、「不増不減」は「空間を空とする」大乗仏教的原理を示していると考えられるのです。
そして、般若心経全体は、密教的と言えるのではないかと、私は考えています。「空」の理論を客観的に述べて、最後に救済のための真言を添える実践的側面も持ち合わせているからです。

最後に、時間や空間が絶対的なものでない(=実体ではない、すなわち「空」)ということは、現代物理学(相対性理論や量子力学)証明していることです。
 現代物理学と般若心経に関する詳しい考察は、今後のブログでアップします。

この記事の著者

通訳ガイド研究会
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